3.ロッキンルーラ 2 / 2



「初めて線引きしたことを思い返すと、自意識との強い関わりを考えさせられます。僕は、両親が家を留守にすることの多い家庭で育ったのですが、ある日、驚くことが起こりました。母が古くなったくずかごを捨てると言い出したのです。家に一人でいることが日常だった幼少期の僕にとって、物は僕と同じ立場のものでした。それは決して、『僕にとって』と表現できるものではなく、単に画一的なことで、そこに感情はなかったのです。それはごく肯定された秩序でした。しかし、母の発言によってそれはあたかも自然なこととして否定されました。くずかごを捨てる、と。

 子供の時間は無限ですので、その出来事について自分がどれくらいの時間をかけて回答を得たのか、今思えば即日だった気もしますし、もっと長くだった気もして、そのように出来事から遠く離れてしまえば、時間とはまあ、夢の中の出来事のように歪みますね。しかし、その時にはどれくらいだったのか確かな時間を経て回答を得ました。『このままでは生きていけないな』と。全てのものと変わらずに自分が画一的なものであると捉えたままでは。

 だから、生きるとは肯定された秩序に差し込まれた否定を生きていくことだと子供心に悟り、肯否の懸け橋として執着しないスタイルを自身に作りました。もちろん、言葉にできるほどすんなりしたものではないですが、そのような一つの人格を自身に課した、いわば自意識との出会いだったのではないかと考えています。そして、この場合それが自身に与えた線引き、もしくは自身と他者ではなく、自身と世界の線引きだと考えるとき、夢の役割が分かるような気がします」

「あなたにとってそれが蝶が見た夢と、そう思うのね?」

   私はうなずいて続けた。

「自意識や線引きは、肯定された秩序にただ配された自分自身を守るために必要不可欠なのかもしれません。それにあらがうことが正しいとも正しくないとも、そのような二者択一にはとどまらず、また自意識や線引きは多岐に渡ることを考えれば、誰もが肯定された秩序を持ち、それ自体がこれから書き込まれる全てを含む青写真であるかも分かりません。何をジャッジし線引きするかで、地図が変わり、その地図の書き込みを自分意外の誰もできないと思うと、肯定された自身において自身のみに委ねられた地図の価値と重さを感じます。夢なしで人は生きられない。そして、線引きの受容も排除も単に指標なのかと。それなら──」

「それなら?」

「ええ、それなら、地図は、全てが肯定されている元の地図と、自身の指針を書き込んだ手元の地図との二枚があり、ならばそのふたつの概念を束ねる地図エックスの提示を自分自身に仕掛けてもよいのではないかと」

    僕が言い終えると、彼女はまたペン先でコツコツと机をたたいた。そのリズムは部屋の窓を開け放ち、風を運んで、無数の花の香を呼び込んだ。確かな脳を持つ蝶は方々を舞い、手に止まった蜂は針を出して僕をチクリと刺した。


eggtreeplanet

いつかの私が探したときには見つけることができなかった桜の木。しかし今の私は至極簡単にその木にたどり着くだろう。 ゆ「繋がれた部屋」より

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