1.やさしい哲学 1 / 5
今、なぜか崖を登っている。到着してからは惑星ゲートに連なるロビーにとどまっていた。他に人もなく、ロビーの中央には浅い懐古か、根を張った植物が天井を突いて首を方々にもたげ、枝から垂れ下がる葉を揺らしていた。風もないのに揺れる葉とその樹は、当たり前にホログラムかそうでもないのか。そんなことはどうでもいい。なんせ見たいものを見せる惑星なのだから、自分はそれを見たかったのかもしれない。そんなゲートロビーで順のない順番を待ち、だから手続きだろうけど、待たされていた。待たされていたはずなのに気が付けばなぜか崖を登っていた。
テクストを十分に読んだが、唐突な崖に役立つものと思えない。それくらい謎が多いというより知られていない。知られていないということは、人々の興味の範疇にない、信用度の低い歴史の螺子といえる。大きな螺旋の渦は流行るが、渦が持つ螺子の個性に興味を持つ者は少ない。その興味自体はコアだろうが、時間指標(テクストには墓標とも)が示す時間は、感情的で歴史としては信用度が低い。しかし感情の抑揚に類するアンチとはそのように派生するものと、時間形態を興味の対象と捉えた。
たまたまだったのだ。懐古流行りに乗じて、コンテンツが開催するいくつかの会合をはしごした。今時コンテンツのホログラムに足を運ぶ者も少ないと思ったが、懐古マニアにはそのように振る舞う連中が少なからずいる。卓上でも十分コンテンツ情報を引き出せるが、ホログラムを伴うアクセスは、脳内体験でしかない卓上アクセスと違って、引き出した情報を分散型ではあるが五感体験できる。そういった参加者が残すコメンツは、まだマニアを自称するに臆病な連中の自尊心を刺激し、次回次々回への動線となり回を追うごとに参加者を増やした。そうして会合で公開される情報を体感してのちホロより吐き出され、コンテンツが補塡する二次会へ向かう。
このところ続いている懐古流行りで、近ごろ懐古を一くくりに語る傾向がみられるが、実質としてのレイヤーは多岐に渡る。一般には螺旋の百周期よりも深い辺りの名詞になりうるものをその通念とする。その帯はさらに三百周期まで降りて、それ以降は、動詞・形容詞・形容動詞の認識で活用があり、ほぼ手探りの想像世界に等しいといわれている。が、それは俗説で四百、五百周期と安定した品詞において確かに降りることができるのだと、会合で知った。中には螺旋を降り切ったなどという者もあり、うそぶいていると思いつつも、あり得るのではないかと耳を傾けて、そのような面白さが二次会には補塡されていた。
面白がるということ自体懐古品詞に類するだろうと言語感覚も深まる。螺旋は螺旋が持つ無数の偏る螺子より平均値を捻出することでとぐろを巻いて一般総称だと歴史を維持するが、その一般総称は無数の螺子という偏りにあてがわれ浮かび上がる虚像に過ぎない。行きつ戻りつすることで維持されている螺旋が歴史だというならば、歴史とは動力そのものである。と、コンテンツのコメンツ欄に書き込みをしたところ、懐古主義の連中からコンタクトがあった。今では懐古主義者と懐古マニアをつないで、コンテンツを経由せず、懇談会をしている。マニアなら深く帯を降りたいと思うのは至極当然で、それは主義者の持つ情報を暗に指さすことだと各々了解していた。もちろん帯を浅くしていたい連中もいて、そういった会に顔は見せない。そのようにマニアが浮き沈み二分する中、主義の連中は常に新しい視座を求めていた。マニアが疑問を投げかけることすら、主義の連中からすると肯定すべく真新しい視座と感じられるようだった。螺旋の帯は深く降りるほど渦が狭まり、螺子も錆びてか、定説に余白を奪われるのだろう。しかしそうした懐古を通して互いを尊重し補い合うというロマンチシズムは、双方を大いに満足させた。
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