1.やさしい哲学 2 / 5
そのような折、懇談会で内包二元の雑談があった。それは内包以前であるところの懐古二元の前振りで、いくつかの雑談を重ねてのち、その日の題目となった。懐古二元が本日のメインディッシュというわけだ。題目が決まると、その定義について主義者とマニアの間で再確認を行う。ともに螺旋を降りるための共有概念を要する、いわゆる定礎だ。定礎を済ませると、個々人要領がいい。主義者とマニアの掛け合いで呼吸を整え、少しずつ帯を降り定説を揺すぶる。そのうち叡智とのディスカッションも始まって、早い段階で目的の螺子に到達した。到達し、叡智に螺子の降臨を許されたのだったが、ディスカッションの再提示があり、そこに通過儀礼が用意されていた。帯を五百周期より深く降りると、螺子によってはそのような要求があると話に聞いてはいたが、自分もマニアの連中も初めての体験に動揺した。この動揺にあたり主義の連中は用意していたカードを切った。いわゆるUFOだ。UFOの存在は知っていたがその活用については一般に未確認だ。だからこれについても動揺し、当たり前に高揚した。しかしそれは主義の連中があらかじめ用意していたものだった。マニアにとって初めての体験である通過儀礼に際し、古いツールとして人々に埋め込まれている高揚感を引き出すために。もっとも場数を踏めばカードUFOを記号に、高揚を引き出さずとも儀礼を通過できる。主義の連中がそのように言い添えると我々は見事儀礼を通過し、トランスに至った。
トランスを経験してみれば、これに対するテクストが概して少ないことが容易に理解できる。言いようがないのだ。それは二点の間に存在し、トランスという視点により三点となる。そのようにひどく減速して無数の映像を見るが、螺子を出て帯を浮上する頃には、映像のうちより一コマのみが懐に残る。故にこれらをビジョンと呼ぶ。と、テクストの記述はそれだけだった。帯より浮上し、定礎に打ち立てたものは確かなビジョンになる。が、それは螺子の中では確かな映像だったのだ。それら螺子より映写される映像は何ら意味もないように思えるのに、その映像により味わった感情がどうにも扱いようのないほどに鮮明で、持ち帰ったビジョンにいつまでもまつわりついた。そう言うと、懐古二元だからねと主義者から返って、それを合図に各々持ち帰ったビジョンに耽った。
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