13.殺し屋危機一髪



 大したものは作らないけれど、料理が嫌いなわけではない。酒が好きなわけではないけれど、嫌いなわけでもない。選択のどちらともない日常を幸福と呼ぶのかもしれない。そのように生きて、そのように終わることを。紡がれた歴史に倣えば、善を勧め悪を懲らしめるという二分した発想のままならぬことも、またそれが基盤のままならぬことも選択のどちらともない日常に溶け込んでいる。しかし勧懲を前提に円卓を囲みそれを一とするならば、そこに善悪は問えずただ割合となる。割合と考えるならば、勧懲などという修辞性など及ばずにして世が運行しそうなものなのに、その勧懲が世を結着させているのだから複雑なことだ。卵がなければパン粉は付かず、どのような高品質の油をくぐらせようと、中身が飛び散ってしまう。しかしながら先だって、小麦粉に水を溶けばバッター粉となり、卵の必要もないと聞いて驚いた。それを聞いたらキリストも喜ぶだろう。

 円卓に修辞性を見ず割合を見ることが仮に前衛だとして、割合を見ずに修辞性を見ることを考えるとき、それそのもの同士を一つの円卓に重ねればスペースが生まれる。前後を一つの運行とすれば、その反復を並べ歴史とするることができる。有無を問わない選択とは要するにそのように存在し、未知を含んでいる。それを人間の数と考えるのは至極当然に思う。要するに円卓は円卓の上に乗っているということだ。そしてその円卓もまた然りと、そんなことを考えて大根の葉をボイルした。葉を付けたままだと大根が弱るというが、なんという勧めか。大根からすればそれは割合でしかない。しかしその割合を修辞と考えるならば、人はバッター粉という未来を記す地点を、反復せずに進むことができるかもしれない。進むという概念すら、円卓において割合であると知りながら。一画における一点はまるで無限の鏡合わせだなと、大根を輪切りにして皮を剥いた。

 おでんの具は人それぞれのようだが、大根は鉄板だろう。大根があるならジャガ芋がなくてはならない。そして昆布。私の内ではこの三つが同じ位置にある。はんぺんやさつま揚げ、ちくわぶなどは後にして、昆布で出汁を取り、その後で取り出した昆布を何か願いを込めるように結ぶ。大根は皮をむき、いつまでも煮崩れないように面取りをして下ゆでをする。ジャガ芋は皮を剥き、芽を取り、やはり煮崩れては困るから面取りをする。丸ごと入れるという手もあるが、今日のジャガ芋はやや大きい。とそのように、これはおでん三つ巴として私の内で同じ位置にある。私は今、割合と進行の話をしている。円卓は鍋である。

 私は殺し屋であり、故に命を狙われる者である。しかしながら私は円卓であり、その卓上に割合と修辞的な選択を内包する者でもある。


eggtreeplanet

いつかの私が探したときには見つけることができなかった桜の木。しかし今の私は至極簡単にその木にたどり着くだろう。 ゆ「繋がれた部屋」より

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