1.やさしい哲学 4 / 5



今、自分が登っている崖はひどく屹立している。この崖がいったい時間指標と何の関わりがあるのか皆目理解に至らない。だいたい螺子が欠けて螺旋の外に飛び出し、惑星として実在するなど、一般教養にそのような記述を見たことがない。どうにも興味をそそられのこのこやって来たがこの有様で崖を登っている。だいたい崖にしたってそうだ。タグ追いした「崖」を、カテゴリ順位上位の「風景」で、スクリーン検索しかしたことがない。それらを検索すること自体が珍奇だ。いったいこれが見たかったものかと、突起した岩をつかむ手に力が入った。しかしながらこの手触りは形容しがたい。ホロでの体験は五感分散が保たれるから、身体的にも精神的にも局部圧に関わる体験は数値として分散される。だから岩を掴むという身体的局部圧を要する体感と体験は形容しがたい。付随する感覚が、まるで螺子より持ち帰ったビジョンのように、前後左右に何かしら伴いたがる。形容しがたいこれは何周期目に存在する五感だろう。または何周期目まで存在するのか。そして、その存在はどのように品詞を得ているのか。

 ビジョンに耽るような占有的思考が押し寄せて、手探りに岩をつかんだ。今まで気が付かなかったが、探り当ててはつかむ岩を上へ上へと登っている。なぜ上なのだろうと手を止めて、この至極当然な疑問を自分自身に提示していなかった事実に驚いて手を離した。そうして立ち上がり崖に垂直した。登っていると錯覚していた崖は平面となり、手のひらに形容しがたい圧を与えていた岩々は、確か地平線と言ったと思うが、その線を得て遠点を可能にしていた。すなわち隣接する岩が近点かと視線を下ろし、改めて撒かれた岩、いやこの場合は石になるのか、無数のそれを眺めた。眺めていると、何か記憶がくすぶるのを脳内に感じた。私はこれを知っていると、極自然に主観を用いると、視界が開けるようにデータが脳内に浮上した。

 タイムクライム・ボルダリング論考。減速に対して、ポインターを加速とし、減速を具現するための論考で、いくつかあるタイムクライム論を編纂したものだった。タイムクライムの中でボルダリングと選出されるのは、ポインターに対して減速として存在する主観のことを論じるものを言う。もしくは、ポインターに対する主観・減速を客観・減速まで推移させ、加速とするポインターに応じて始点と終点を同時に両者の減速点に見いだすことで主観と客観を滅却し、純粋域としての空間の密度を軽くして、そうすることでポインターを上昇させることを言う。要するに三次元から五次元までの定理だ。ここに来る前に時間に関する一般教養コンテンツと、主義者に勧められたいくつかのコンテンツから情報を引き出した。添付されたテクストも多く、記憶に埋もれていたのだ。それにしても、と改めてボルダーを眺めた。この中のどれかがポインターなのだろうか。減速する主観と客観もこのどれかなのか。私にはまるで見分けがつかないとつい口にして、そうか主観かと、私自身が主観・減速であると気づいた。それならば、条件とこの状況から考えて客観・減速も私自身であると考えられる。しかし私は滅却されてはいない。ならば主観から客観まで推移させるということか。しかし、どうやって? と、そこでようやく、今、自分が体験しているのが懐古二元なのだと気が付いた。ここは三次元なのだ。

次回 明日 0時 



eggtreeplanet

いつかの私が探したときには見つけることができなかった桜の木。しかし今の私は至極簡単にその木にたどり着くだろう。 ゆ「繋がれた部屋」より

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