1.やさしい哲学 5 / 5
幼い頃に解放ドームで、ホログラムではあったが原っぱを体験したことがある。印象に残り、今でも時折スクリーン検索をかける。それは憧憬という懐古品詞でかたどられる感情体験で、だから私は懐古マニアなのかもしれないと真面目に考えていた。色彩や形状はまるで違うが解放ドーム並みに広いここは、まるで幼い頃に体験した原っぱのようだ。そう思うと、これが私の見たかったものなのかもしれないと石の原っぱを見渡して、その規則的な配列に気づいた。まるでグリッドだった。石自体が推移のメモリのようだ。ならば、クライミングするしかないのかもしれない。私自身が主観と客観を背負い、登るという始点と登りきる終点を自ら作るということだろう。しかし、どちらが主観でどちらが客観なのか。推移するなら始点は過去になり、現在からの俯瞰が可能になるとすると、それを客観としてもいいだろう。すると主観は終点ということになるが、時系からするとそれは未来になる。ならば現在はと考えて、自身がポインターであることに気づけた。
ポインターは終始する私自身に他ならない。見いだされる純粋域空間とは私自身、この肉体を指すのだ。そこまで思考すると、垂直していたはずの私は屹立する崖にぶら下がる体制となった。登れということか。 まるで外側から自分の道がやって来るようなこの感覚が三次元というものなのか。なんとも度し難い。しかし、上という想定された概念に対して、今は登るしかないように思う。私は岩をまさぐりながらひたすらに上を目指した。始点から、いったいどれくらい推移すればその終点にたどり着くのか。汗が流れた。五感分散されていないせいで、とめどもなく汗が流れる。いや待て、五感と汗は関係したか。分からない、分からないと、あらゆる感情と感覚とが解放されゆく。早く、早く、たどり着きたい。この汗だくの状況をなんとか終点させたいと切に願った。願うとは、なんたるセンチメンタリズムか。このように肉体を駆使するセンチメンタリズムなど、受難としか言いようがないなと考えて、ふと、未来に現在である私がたどり着いたとき、未来が未来でなくなることに気が付き、またもとめどなく汗を流した。いったい終わりは来るのか? と、手に汗を握り、私は石にしがみ付いた。なんと惨めな。このような感情は味わったことがない。もう次の石に手を伸ばすことすらできないのではないかと姿勢を保持した。これが保身かと、空でなぞった品詞に打ちのめされる。いったいどれくらいの時が経過したか、私はそんなふうに屹立した崖に散りばめられた、本来升目でしかない無口な石にしがみ付いていた。
時間が流れずにひたすら位置を示し続け、動かないでいる私は現在と言えるのだろうか。それでまた、そろりと手を伸ばした。定かではない未来という名の終点のために。しかし、そうして手を伸ばすうちに傾斜が緩くなった。すると五感分散されたのか本来の思考が戻り始めた。終点・未来に到達する現在は、純粋域としてその未来を押し拡げるのだと。私という純粋域空間は常に拡張するのだと、垂直を得た。そうして振り返ると、登ってきたはずの崖は、やはりただの石原だった。私はそこで生まれて初めて涙を流した。何をそんなにというほどにむせび泣いた。すると天上から一筋の光が差し、石原は草原となった。
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